みことばの花 190312「アリマタヤのヨセフ」

みことばの花190312「アリマタヤのヨセフ」

「そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、
イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。
ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。」(ヨハネ 19:31) 

昨日、私は父と妹と共に、母の遺骨を納めるため墓地に行きました。
すでに母の息は神様のもとに戻り、残されたのは小さな骨壺にある骨だけです。
母は復活を願って眠っています。
ところでキリストの十字架後に、キリストのご遺体を受け入れることを名乗り出られた人がいました。
その人はアリマタヤのヨセフというユダヤ議会の議員さんでした。
彼は公然とキリストへの信仰表明こそはしていませんでしたが、密(ひそ)かなるキリストの弟子でした。
しかしキリストの死後、自分の人生の道筋をはっきと表明しました。
人生を正しく送るためには、時としてヨセフのような決断が必要な気がします。

磯部豊喜

みことばの花 190311「つなみ」

みことばの花190311「つなみ」

「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、」(ルカ 21:25) 

今日は悲しい記録の3・11です。
8年前のあの日のTV放送、「つなみ(津波)」によって多くの家々が流されている様子は、災害ドラマを見るような光景でした。
ですがドラマではなく現実に起きていることに絶句しました。
ですが家が流されることもですが、多くの人が流されていった。
母親の手から赤ん坊が流される光景を見てしまった人は、8年後の今でも心を痛めているそうです。
わたしも震災2か月後にボランティアで被災地に行きましたが、その惨状には声も出ませんでした。
破壊された家々をみて、ここに住んでおられた人はどうなったのかな…と。
「言わば震災後8年ではなく震災8年」という表現が新聞にありましたが、本当にそうです。
今も被災中の方々に天来の慰めがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190310「終(つい)の住処」

みことばの花190310「終(つい)の住処」

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。
そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」(ピリピ 3:20) 

久しぶりに東京の家に戻りました。
久しぶりにボーッとTVをみました。
東日本大震災の被災者が取り上げられていました。8年になります。
放送で度々、語られた言葉、それは「ついのすみか」。
どんな漢字なのかと眺めましたら「終の住処」とありました。
そうか「人生の最後の住まいか」…その最後の住まいが、あの災害で壊されて、今も修理が出来ていない家が多くあることを知りました。
ですが真の「終の住処」は上記のみことばにあるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190309「後悔のない言葉」

みことばの花190309「後悔のない言葉」

「あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」(マタイ 12:37)

今日は言葉のことで教えられました。
それは次の一文です。「人々と交わるときには、語る言葉に気をつけなさい。
あなたの会話は後悔を必要としないようなものでなければならない」(「今日の光」2019-1号)。
この一文を見て、ドキッとしました。自分の口を振り返ってみると、後悔だらけの言葉を語ってきたような…。
続いて「もしあなたの友人や兄弟の品性を傷つける言葉が語られたなら、その悪口が広まらないようにしなさい。
悪口を言った当人に対しては、聖書がそのような会話を禁じていることを優しく伝えてあげなさい。」ともありました。
自分の心の宮を汚し、他人の心も汚すことのない良い言葉を語る人でありたいものです。
今日は第七日安息日、せめてこの日だけでも…。主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190308「生涯」

みことばの花190308「生涯」

「わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。
主はわたしに耳を傾けられたので、わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。」(詩篇116:1~2)

こういう言葉があります。
「私たちが大いに必要としていることそれ自体が、動かすべからざる理由であり、私たちのために最も雄弁に語ってくれます。
けれども私たちは、こうした必要を満たし得るものとして神を求めなければなりません」(エレン・G・ホワイト著「キリストへの道」p129)。
上記の「生きるかぎり」とある言葉は、別訳の聖書では「生涯」と書かれています。
「生涯、わたしは主を呼ぼう」と。私を創造してくださった方を呼ぶのです。
主は、創造者ですから私の心身の痛みを癒してくださるに違いありません。
今日も主を呼び自分の必要を告げてみてください。

磯部豊喜

みことばの花190307「優先順位」

みことばの花190307「優先順位」

「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。
そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」(ルカ 10:42)

「〇月〇日に会議があります。…」という案内を頂く時があります。
すでに予定を組んでいる時に、このような案内を頂くと戸惑います。
どちらを選んだらよいのか…と頭は回転します。
そのようなとき、「命にかかわることを最優先」と言い聞かせ、ある場合は案内を断り、ある場合には案内に応えます。
上記は、接待のことで忙しくし心を取り乱してしまった姉に対して、
すなわちキリストの言葉に聞き入る妹に対して「妹に接待を手伝うように言ってください」と文句を言いはじめた姉マルタに対して、
主が語られたものです。
キリストのみ言葉を聞くということは命の選択。
これは取り去ってはならないものでした。毎日、み言葉を聞くことを優先順位の一番に掲げたい。

磯部豊喜

みことばの花 190306「関心」

みことばの花190306「関心」

「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。
わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。」(イザヤ 44:21) 

数週間も前のことです。
「人は好きか、嫌いか、無関心か、この三つの中のどれかしか選ばない」という言葉を聞いた方が「本当にこの三つだけだろうか?
これだけではない気がする」と、話してくださった時に、私の頭にひらめいたものがありました。
それはあと一つの選択肢。それは「関心を持つという選びもある」ということです。
「関心を持つ」というのは、「愛」が基礎にあります。
ただしこの「愛」は、元は神の心にあるものなので上から頂く必要があります。
親が子に対して関心を持っているように、神は常に私に関心を持っていてくださいます。
「わたしはあなたを忘れない」と主は、今日も私の心に語りかけてくださいます。

磯部豊喜

「万軍のみことばの花 190305「~のに」

「万軍のみことばの花190305「~のに」

主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。
主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」(イザヤ 5:7)

必ずしも願通りにすすまないのが人の世であると、み言葉は教えます。
上記の「~のに」は、とても残念な言葉です。
上記の「ユダ」は、神がその民として選ばれた民族。
ですが神の期待通りに生きてはくれない。これには神様さえも嘆く。
期待通りにいかないときに、神様ですら「~のに」があることは私の支えになります。
主は、私の「~のに」を理解してくださるに違いありません。

磯部豊喜

みことばの花 190304「敵を味方に」

みことばの花190304「敵を味方に」

「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである。」(ローマ 12:20) 

昨日「山」と「山」の動かぬプライドのことを書きました。
もちろん、人生には絶対に譲ってはいけないものもあるでしょう。
ですが、もし「敵を敵のままにしない」生き方が出来たならば、これは素晴らしいと思います。
敵という存在とは、自分とは肌が合わない人、意見が食い違う人を指すでしょう。
こういう人と共存することは実に至難のわざです。
むしろ相手の出方を見計らって、こちらも構えてしまうのがこの世の常です。
ところでパウロは上記のような光を神様から受けました。
「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる」。
このような生き方が、相手を変えることになると。「
貴方には負けた」と言わせ得る、神様の素敵な処方箋なのです。

磯部豊喜

みことばの花 190303「合意」

みことばの花190303「合意」

「しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。」(ダニエル 2:43) 

一昨日「米朝首脳 合意至らず」という見出しが新聞の第一面を飾っていました。
「やはり…」と感じたのは、私ばかりではないと思います。
「山と山は出会えないが、人と人は出会える」というスワヒリ語のことわざがあるそうですが、
人が「自分は山だ」と言い張っている限り、合意はないでしょう。
人は本来、「人」という文字にあるように、1と1が支えあっていくもの。支えあって行くときに合意が生まれる。
昔、タクシー運転手が、お互いに道を譲れずに、結局、車と車をぶつけ合って通り過ぎる光景をみたことがあります。
実に驚きました。「どうぞ!」と、言えないゆえに…。やはり「山」と「山」いう動かぬプライドが邪魔をしていたのではと思います。
上記の「み言葉」は、この悲しむべき人の性(さが)を語っているような聖句の一つです。

磯部豊喜