みことばの花 190207「ドンキー法廷」

みことばの花190207「ドンキー法廷」

「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。
兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。
また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」(マタイ 5:22) 

今日も言葉の瞑想です。上記は、キリストが語られたとても怖い言葉です。
「兄弟にむかって愚か者という者は、議会に引き渡される」とあります。
ここで浮かんだのは、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの冒険小説に登場する主役名の「ドン・キホーテ」です。
ところが私はこれを「ドンキー」「法廷」と読んでしまいました。
ドンキーはロバを意味する英単語ですが、「うすのろ」「マヌケ」を指しているとのこと。
聖書は人に対して「愚か者(ドンキー)」と呼ぶものは「議会(法廷)に引き渡される」という。
やはり言葉使いには要注意しなくてはなりませんね!

磯部豊喜

みことばの花 190206「すべるもの」

みことばの花190206「すべるもの」

「わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです。」(詩篇 17:5)

今は受験シーズン。このような時に一番聞きたくない言葉、それは「すべる」という言葉ではないかと思います。
合格ラインに止まれたら幸いなことです。
ところで他にも災いを運んで「すべる」のものがあります。
それは口です。言ってはいけないことを深く考えることなく言ってしまうことを「口がすべる」といいます。
振り返ってみますと、どれほどこのすべる口のために泣いたことか。
「励ます」と言うつもりが「〇ます?」などと言ってしまったり…。
自虐ネタとしてはユーモアがありますが、他人の容姿に関するものなどは禁物です。
「口は災いの元」、この口をコントロールする制御装置が欲しい。
上記の詩篇記者のように、神様の道に堅く立ち、足も口もすべらせないようにしたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190205「代名詞」

みことばの花190205「代名詞」

「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。
…彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル 11:4) 

「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」という言葉に、ジーンと来ます。
一昨日の日曜日、Kさん(婦人)の葬儀を行いました。
Kさんは「愛の人であった」ということが、家族の人の言葉に証明されていました。
私は死んだら何という代名詞を頂けるのであろう。
過分に評価されたくはありませんが、悪い評価もされたくもない。
私を知り尽くす家族の評価は、一番気になるところなのです。

磯部豊喜

みことばの花 190204「欲心」

みことばの花190204「欲心」

「これによって、その所の名はキブロテ・ハッタワと呼ばれた。
欲心を起した民を、そこに埋めたからである。」(民数記 11:34) 

人間には「こうしたい、ああしたい」という欲求があります。
過激な欲の心を、欲心と呼びます。
慾という常用外の漢字がありますが、これがそうなのでしょう。
しかし欲は欲でも気分転換とか、新しい切り替えをするために願う欲求はあっても良いと思います。
上記のみ言葉は、欲心の民のことが書かれています。
完全食といわれるマナという天から降ってきてパンに飽き足らずに、
「肉が食べたい」という欲心を持った人々に神はうずらを用意されました。
人々はこれを貪った。その姿が主の怒りに触れました。
「キプロテ・ハッダワ」とは「貪欲の墓」と呼ばれます。
「貪欲」のために命を閉ざされた悲しい記念碑の名です。
行き過ぎた欲心には常に気を付けなければならないと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190202「輝く雲の中から」

みことばの花190202「輝く雲の中から」

「彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、
『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』。」(マタイ 17:5)

ここに登場する輝く雲とは、キリストの再臨の光景を引き立てる雲のことでしょう。
その輝く雲の合間から天の父と思える声が響きました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と。
「わたしの愛する子」とはイエス・キリストを指しています。
キリストは、わたしたち人類の「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)お方ですから、「これに聞け」と言われます。
愛する者との死別の悲しみは主イエス様が癒してくださいます。
キリストは死から復活されました。ゆえに人は死が人生の終着駅ではないと確信させられます。
主こそわが命、わが人生の鍵です。主を信じる者は「決して失望することはない!」。
今日は安息日、「これに聞け」と天の父が言われる主のみ言葉に耳を傾けたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190201「安かれ」

みことばの花190201「安かれ」

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、
イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。」(使徒 20:19)

人生には時々「おそれに」包まれることがあります。
この日、愛する主を十字架の上で失った弟子たちの心境が上記に記されています。
「弟子たちはユダヤ人をおそれて」とあります。
この「おそれ」のただ中に、何と復活されたキリストが彼らの真ん中に立たれた。
しかも戸が閉まっているというのに…。これは不思議な現象ですが、事実は事実。
キリストは言われます。「安かれ」と。
「おそれることはない、私はあなたと共にいる!」そうなのです。
今でもキリストは目には見えませんが、私のそばに間違いなくいてくださる。
これを復活信仰と呼ぶことが出来ます。
キリストは確かに死から甦った。それゆえ今、私のそばにおられます。
磯部豊喜

みことばの花 190131「いなくなる」

みことばの花190131「いなくなる」

「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記 5:24)

上記において「いなくなる」という表現は死ぬことでありません。
エノクの場合は死を見ずして天国へ連れ去られ、いなくなった人。
ところで今日、エノクのように死を迎えることなく「いなくなる」人はいない。
ですがキリストは「私を信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われます。
今週、Kさんという一人の素敵なキリスト者がお亡くなりになられました。
ですがこの方の場合、亡くなったことに相違はないのですが、
私にとっては、しばらく「いなくなった」に過ぎないという感覚なのです。
いずれ復活し、また会えるのですから。

磯部豊喜

みことばの花 190130「静まれ、黙れ②」

みことばの花190130「静まれ、黙れ②」

「イエスは起きあがって風をしかり、
海にむかって『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」(マルコ 4:39)

昨日の続きです。
数日前に上記の聖句を思い浮かべていましたら、
また「あした浜辺を さ迷えば…」で始まる名曲「浜辺の歌」の替え歌の歌詞(讃美歌)が私の心に浮かびましたので、
今日はそれを紹介しましょう。

磯部豊喜作詞は、「ガリラヤ湖の歌」。
「一、ガリラヤの湖(うみ)の 浜をゆけば 主イエスのことを おもわるる 激しい嵐 迫りくとも ただ一言で 静まりぬ」
「二、この世の嵐も 迫りくとも 主イエスの御顔 仰ぎ見て 祈り求める われに襲う 悲しみ悩みも 消え去りゆく アーメン」。

よかったらどぞ口ずさんでみてください。
先日の母ばかりでなく、今週日曜日に教会の大切なメンバーも一人亡くなり、
どこかセンチメンタル(感傷的)になっているのかも知れませんが…。

磯部豊喜