みことばの花181228「主の目」
「主は振りむいてペテロを見つめられた。
そのときペテロは、
「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。」(ルカ22:61)
昨日の内容の続きです。
昨日、「ペテロの失態と共に、その弱さに同情される主の暖かさも聖書は記しています」というような内容を書かせて頂きました。
主イエス様の暖かさはどこに登場しているのでしょう。
その一つは、上記のみことばの中に隠されています。
ここに「主は振りむいてペテロを見つめられた」とありますが、主はどのような眼差しをもってペテロを見つめられたのでしょう。
この様子を瞑想のうちに描いた本に、次の一文がありました。
「主を三度も拒んだ。そのとき、…イエスの御目とペテロの目がぱったりと合った。
イエスの御目、それは譴責(けんせき)の目でも、うらみの目でもなかった。
『それ見よ、大きな口をききながら、愚かなやつ』というあざけりの目ではなかった。
やさしい表情のうちに、深いあわれみとゆるしの目、失敗し、あやまちを犯した子と共に
責任を分担するときの母の涙でうるむやさしい目であった。」(柴田栄治著「出会い」p81)
私もイエス・キリストのご品性を思うと、この描写は、その通りだと思います。
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば
、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」(マタイ6:14)とは、
主ご自身の口でお語りになられた御言葉に他ならないからです。
主の恵みが今日もありますように。
磯部豊喜