みことばの花 180921「人生の着地点」

みことばの花180921「人生の着地点」

「あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう。」(ヨブ記 8:7)

「人生、着地が大切だ」と私は常々考えています。今朝のニュースで、TVをにぎわした歌のお兄さんだったという人が、覚せい剤を使用して警察に保護されました。歌のお兄さんといえば、子どもたちのスター。若いときに彼らはスターだった。この人が、このような暗転を乗り越えて人生の最後には、立ち直って欲しいと願います。さてこれとは反対に、初めは小さくあっても、終りは非常に大きくなった女優といえば、樹木希林さん(本名:内田啓子)でしょうか。彼女自身が「今日までの人生、上出来でございました。これにて、おいとまいたします」と語り9月15日に人生の幕を閉じられました。「終り良ければすべて良し」ですが、バプテスマのヨハネと言う人は、殉教という悲惨な最期を迎えました。ですがキリストは「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」(マタイ11:11)と言われます。彼の着地点は、キリストのお褒めの言葉がすべてです。果たして私はどんな着地点を迎えるのか…。それは日々の積み重ねのような気がします。

磯部豊喜

みことばの花 180920

みことばの花180920

「聞く耳と、見る目とは、ともに主が造られたものである。」(箴言20:12)

「神は目を二つ、耳を二つ造られた。しかし口は一つしか造られなかった」とは、よく聞く言葉です。ところが上記のみ言葉には、口のことが書かれていません。「聞く耳」「見る目」の大切さを強調したかったのでしょうか。ところで観察しますと、聞く耳はほとんどなく、目を瞑(つむ)っているけれど、口だけは二つどころか三つ四つに数えられるような人がいるような…。ある会話に、「あの人はスコップだから注意しよう!」というのが出ていました。この真意は「スコップ=シャベル(おしゃべり)」ということだそうです。おしゃべりの傾向のある人は、口を押さえられるといいですね。いえそれと共に、それ以上に「聞く耳、見る目」を持ちたいものです。キリストも「耳のある者は聞くが良い」とか「きて見なさい」「目をあげて畑を見なさい」などと言われました。良いもの聞き、良いものを見る目を持ちたい。口を鍛えることよりも、まずよく聞く耳、よく見る目を養っていきたいものです。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180919「捨てられない」

みことばの花180919「捨てられない」

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」(マタイ 6:26)

とても慰めに満ちたイエス様のみ言葉です。天の神様は「空の鳥を養っておられる」そして「私たちを彼ら以上に大切ししてくださる」というメッセージです。次の言葉は、素敵な内容ですので紹介します。「主は、すずめの落ちるのをごらんになります。人の心の痛みも、ご存知です。主はどこにでも、わたしたちと共におられて、なげきの涙に目をおとめになります。主にたよる者は、主に捨てられたりはしません。決して、捨てられたりすることはありません」(E.G.ホワイト著「思い煩ってはなりません」p124)。とはいってもこの世界には、悲しいことばかり、これは本当ですか?とこの言葉を疑いたくなるかもしれません。ですが、どんなに不幸と思える中にも人知を超えた神の恵みがあることも事実です。きっといつの日か、その意味が分かる時が来るに違いない。「決して、捨てられることはない」のですから。今日も天来の祝福がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180918「高齢者」

みことばの花180918「高齢者」

「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ 19:32)

カレンダーの上では昨日は「敬老の日」。ところで今日本では何歳から高齢者といわれているのか…新聞の一文ではこうなっていました。「日本の総人口に占める70歳以上の割合が、今月15日時点の推計で前年より0.8ポイント高い20.7%、人数は100万人増の2618万人となり、初めて2割を超えた…」。70歳以上の人は5人に1人だという。これを見て「高齢者とは70歳からか」と思いましたが…さらにこう続いていました。「…65歳以上の高齢者が総人口に占める割合(高齢化率)は28.1%、3557万人で、いずれも過去最高を更新した」。ここに高齢者とは65歳以上とある。私は当年64歳、1954年1月生れですからあと4ヶ月もすれば高齢者の仲間入りとなる。これまで「白髪の人の前では、起立しけければならない」と意識してきました。まもなく起立される側になる。4分の3以上もの若い方々のために模範となれるよう、「心の帯をしっかり締めなくては」と身の引き締まる思いがしました。

磯部豊喜

 

みことばの花 180917「良い薬」

みことばの花180917「良い薬」

「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」(箴言 17:22)

私どもの教会では一昨日の土曜日に教会に集まったので、この日に「敬老祝賀会」を行なう教会が多いです。高齢者の方々へ向けて少しばかり楽しんでいただける、「良い薬」なるものはないかとネットから情報を仕入れたいと思いましたら、「敬老の日川柳」に出会いました。そのおこぼれの幾つかを紹介してみましょう。①「朝起きて調子がいいから医者へ行く」、②「仲良いね、いいえ夫は杖代わり」、③「うまかった何を食べたか忘れたか」、④「靴下を立って履くのはE難度」、⑤「私だけ伴侶がいると妻嘆く」、⑥「歩幅減り歩数が増えた万歩計」、⑦「俳諧(はいかい)とうわさされ散歩止め」、⑧「流行語覚えた頃は廃(すた)っている」、⑨「万歩計半分以上探し物」、⑩「マイナンバー、ナンマイダーと聴き違え」…これらは入選作品とのこと。還暦を過ぎた私自身、これらの川柳内容に近づいている気がします。特に③、④、⑧、⑨は…。少し楽しんでいただけたら幸いです。果たして、「良い薬?」になったでしょうか。今日の主の守りがありますように。

磯部豊喜

 

みことばの花 180916「再会」

みことばの花180916「再会」

「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ 14:3)

先々週の安息日に、懐かしい大岡山教会へ行きました。そこで30年ぶりにお会いした方が出席してくださいました。30年もの年月がたつと、お互いに「浦島太郎?」かなと、おもいつつの再会でしたが、さほど変わらずとても懐かしく感じました。今朝、その方から「みことばの花」のリクエストが届いていました。うれしくて早速、メールリストに入れさせて頂きました。それにしても「再会」という言葉には良い響きがあります。もちろん会いたくない人と再会するのはいやですが…。いい人とは再会したいものです。さて、その良い人の最高のお方がおられます。それは神の御子イエス・キリスト。イエス様は、今わたしたちの住まいを準備をするために天国におられますが、聖書には「再会」の約束がかかれています。私たちは直接にキリストに会っていないので再会とはいえないかもしれません。ですが、聖書を読んでいるとすでにキリストに会っているような感覚になります。キリストが再び来られる時(再臨)、愛の主にお会いできる。これはキリスト者の大いなる希望です。

磯部豊喜

みことばの花 180915「本当のききん」

みことばの花180915「本当のききん」

「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」(アモス 8:11)

北海道胆振(いぶり)東部地震と命名された最大震度7の地震で、厚真町(あつまちょう)を中心に1600人の方々が避難生活を強いられていることが新聞に記されていました。そして夕食の炊き出しを受け取っている方々の姿が写真に。もし千葉であのような地震があったならば、私もあの中にいるのかも知れないのです。心が痛みます。大切なご家族を失った人、家を失った人、家に住めなくなった方々の心痛が伝わって来ます。避難地では、「ききん」の姿も垣間見た気がします。自分の力で食事をすることが出来ない。この豊かな日本でも「ききん」状態を体験している。もちろん本当の「ききん」は、この比ではありませんが…。ところで食事は十分に取れても、多くの日本人はもう一つのものが「ききん」中。それは「主の言葉をきくことのききん」。教会に行けばそれは解消するのか?そうでもないらしい。み言葉が語られない教会もあるという。今日は第七日安息日。み言葉をたっぷりと受ける聖日です。どうぞみ言葉に触れられますように。

磯部豊喜

 

みことばの花180913 「6:66の聖句」

みことばの花180913「6:66の聖句」

「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。」(ヨハネ 6:66)

聖書の記す数字の中で、暗いイメージを残している数字の一つは「666」(黙13章18節)です。ところでこれは666ではありませんが、6章66節となっている一つの聖句がここにあります。これもまた暗い内容です。「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」。「多くの弟子」とあります。彼らは「この人こそ、イスラエルを救う救い主だ」と受け止めてキリストの弟子になっていました。ところがキリストと行動を共にしなくなった。何故でしょうか。キリストが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人の内にいる」とか訳(わけ)の分からないことを言われたからです。キリストの言葉は、霊的な内容です。ところがこれを表面だけで受け止めると理解できなくなる。キリストと深い関係を築くことこそが「永遠の命」だということを主は言われたのです。しかしこれさえもなかなか理解されないのが、この世の法則でしょう。霊的な世界は、祈りと共に信仰で理解することが求められます。

磯部豊喜

みことばの花 180912「未来完了形」

みことばの花180912「未来完了形」

「第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、『事はすでに成った』と言った。」(黙示録 16:17)

私のいる千葉教会では、毎月1回ずつ黙示録とダニエル書の学びを行なっています。昨日の学びは黙示録18章でしたが、この学びの際に私が繰り返し語った言葉は「未来完了形」です。聖書の中には、将来に起こるであろう出来事の預言が、確実にそうなるものとして描かれています。これを「未来完了形」と呼びます。未来に起こる出来事ですから、その通りに事が運ぶかどうか難しいところですが、聖書を書いたお方が全知全能の神様ですから、その通りになるという信仰をもって読む。まだその歴史はまだ訪れていないにもかかわらず、すでにそれは来ていると宣言します。上記の聖句にも「事はすでになった」(まだ来ていないのに)と宣言しています。イエス・キリストのみ言葉をたどってみても、その多くは未来完了形です。前もって、そうなると予告しています。そしてその通りに、事は運んでいます。私が聖書に信頼を寄せるのは、そのような預言の数々が登場するからです。信頼できる主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜