みことばの花 180819「命を得るため」

みことばの花180819「命を得るため」

「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ 20:31)

「これは何ということだろう!」と今朝の新聞(朝日)の第一面を見て私は思わずつぶやいてしまいました。そこにはこうありました。「内閣府の調査によると、1972~2013年の42年間に自殺した18歳以下の子どもは1万8048人で、日付別で最も多かったのは9月1日(131人)。夏休み明けが近づく8月20日以降は連日50人を超えた。…」この記事の脇に、子どもや親向けの主な相談先として「生きづらびっと 無料通信アプリLINEで毎日午後5~10時半に相談受け付け/24 時間子供SOSダイアル0120-0-78310」とある。「『夜明け前の夜が一番暗い』というのは真理でしょう。でも『明けない夜はない』というのもまた真理だ」というきらりと光る言葉も添えられていました。人の命を見つめる心の視野を広げたい。聖書はこの人の真の命を見つめる書物です。上記のみことばはまさにその一つ。「イエスの名によって命を得るため」に人生は備えられていることを覚えたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 180818「安息の1000年は…」

みことばの花180818「安息の1000年は…」

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(Ⅱペテロ 3:8)

前回の「みことばの花」で、「人類歴史6000年」ということを書きました。聖書にはまた上記のような記述があります。これは人間の時計ではなく神様の時の感覚。6000千年に続くのが1000年期。この記述に、上記の聖句を当てはめると、こういう数式が成り立ちます。6000千年÷1000年=6日、1000年÷1000年=1日。これは一週間にも当てはまります。創造の6日間と最後の一日(第七日安息日)。一週間は七進法で描かれています。実は6000年に続く1000年期は、キリスト再臨後の1000年の平和な期間。神様を心から信じる人は、天国で安息の千年を過ごすのです。ひっとすると一週間制度と言うのは、この人類歴史6000年と安息1000年のミニチュア版かも知れません。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。…」(出20:8~10)との主の御言葉が聞こえてきます。ハッピーサバス!

磯部豊喜

 

みことばの花 180817「人類歴史6000年」

みことばの花180817「人類歴史6000年」

「(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。」(黙示録 20:5)

先日、東京の娘の住む家に行きました。そこで撮りためていたビデオを見ましたが、その中にNHKの番組で「人類の発生」をまとめていたものがありました。ここでまとめられていた内容は明らかに「進化論」。真面目に、しかし日本人を洗脳するかのようにそれがまとめられている。天地万物の創造主を信じる者としては、とても残念に思います。進化論には、人生の目的などは見いだせない。しかも発掘された人骨らしきものだけで、誰も見ていない人類発生を想像のうちに断定していることに私は疑問を抱くのです。さて、一方で天啓の書物である聖書は、人類の発生は進化ではなく、はじめにおられた神(創造神)によって創造されたと説く。想像が真実なのか、創造が真実なのか…。ところで人類が創造されてからの歴史は、ある方の忠実な聖書研究によればAD2018年は人類創造後6019年との計算が成り立つらしい。「人類歴史6000年」その後に来るのは千年期。世界を包む昨今の異常気象。世界の終末は急速に近づいているように思えるのです。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180816「捕らえられている」

みことばの花180816「捕らえられている」

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12)

昨日、とっても素敵な出来事を知りました。それは2歳の男の子が、親の親戚のお宅に同行した時に、失踪(しっそう)してしまいました。ところが3日目にボランティアの男性によって無事に保護されたというニュースでした。このボランティアの男性は65歳をとうに過ぎている人。これまでの仕事を引退した後、残りの生涯を「人の役に立ちたい」という思いに捕らえられて、ボランティア人生に残りの人生をささげる決心をしている。2歳児の失踪(しっそう)の連絡を受けて、早速、捜索に志願しました。そして捜索開始後30分にして男の子を無事に発見し保護しました。しかしすごいのはこの後の行動です。保護された男児の家では、この方への感謝と労いのために入浴と食事を勧めました。しかし彼は「わたしはボランティアで来たので、男の子が助かり、皆様の笑顔を見られただけで十分です」といい、この勧めを爽(さわ)やかに断られたという。「与えて心に留めぬ」愛、真の愛に捕らわれている人の生き方を教えられました。なかなか出きる事ではない…と、敬服させられた次第です。

磯部豊喜

みことばの花 180815「カレブ(3)」

みことばの花180815「カレブ(3)」

「主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。」(ヨシュア 14:10,11)

あれから45年の歳月が経ちました。カレブの年齢は85歳。しかし神様に忠実なカレブは、心身ともにいまだ若者のようです。いよいよヨシュアをリーダーとしてイスラエル人がカナンを征服する機会が訪れました。カレブは続けて語っています。「それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」(同12節)。彼が望んだのは、大きく堅固な町の人々を追い払うこと。心ばかりでなく足腰が丈夫でなければこのようなことは言えない。そういえば、人は「1時間座ると22分寿命が縮まる」と聞きました。座業は足を弱くします。カレブはきっと心と共に足腰も鍛えていたのだと思います。

磯部豊喜

みことばの花 180814「カレブ(2)]

みことばの花180814「カレブ(2)]

「しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、『わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです』」(民数記 13:31)

昨日の続きです。カレブはヨシュアと共に、全知全能の神がおられれることを固く信じてカナンに前進することを進言しました。ところが他の10人の斥候たちの提案は否定的なものでした。その10人の言葉が上記です。私はこの聖書の箇所を見るとき、多数が必ずしも正しいとは限らないということを学びます。しかし多数決によってイスラエルの方向性が決められました。これは今日も同じです。この場面で正しい人は、神を見上げることに忠実なカレブとヨシュアの二人でした。神の世界には、ときどきこのような少数派に正しい判断がみられることがあります。結果としてイスラエルはカナンに住むことが出来ず、40年間もの間、荒れ野をさ迷う事になります。そして40年の間に、神を信頼しなかった10人は荒れ野で倒れ、神に完全に従ったカレブとヨシュアの二人だけは、40年後にカナンの入植に再び挑戦する機会が与えられます。カレブとヨシュアのように神様を信頼する選択をして行きたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180813「カレブ(1)」

みことばの花180813「カレブ(1)」

「そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、『わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます』」(民数記 13:30)

研修旅行に行った韓国から無事に帰ってきました。この度の研修は、熱く心に触れるものがあり、私も涙を誘われた時もしばしばありました。キリストを知らなかった人が、キリストに出会う時の感動がそこにありました。さてそのようなプログラムの中で、最終日に組まれていたのが韓国のクリスチャン劇団「スランミ」の歌劇です。美しい讃美と踊り、そして聖書のメッセージを織り交ぜながら、それは見事に構成されていました。今回の演劇は旧約聖書に登場する「カレブ」が主役。神は、下劣な宗教を信奉していたカナン人を追い払うためにイスラエル人にその地への入植を進めるために、指導者モーセを通して12人の斥候を送ります。しかし10人は強そうなカナン人を見て、その地に入ることを尻ごみします。それに対してカレブとヨシュアは違いました。特にカレブは、我らには神がおられるから必ず勝つことが出きると進言しました。信仰とは全能の神様を見る心です。本物の信仰者は決して弱いのではなく強いのです。

磯部豊喜

みことばの花 180808「困難」

みことばの花180808「困難」

「自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」(マルコ 4:17)

「根無し草」という言葉があります。これは①地中に根を張らず、水に浮いている草、すなわち浮き草を指す。②浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活をたとえた言葉。…だという。上記のみ言葉を読んで、私の脳裏に浮かんだのがこの「根無し草」でした。「自分の中に根がない」とは、土台が不安定な人の心を指しています。人生の軸がぶれてしまう生き方。軸がしっかりと固定されていないと、風に吹かれて、右往左往してしまうでしょう。人生の軸を神の言葉に置いていない人のことが描かれています。み言葉を人生の軸と置いていないので、困難や迫害が起こると、すぐつまづいてしまう。どこから風が吹こうとも「それでも、神は愛なり」と言い切れる、ぶれない人でありたいと願います。台風13号が近づいています。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜