みことばの花 180721「安息の後に復活がある」

みことばの花180721「安息の後に復活がある」

「そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。」(ルカ 23:56)

イエス・キリストを信じていた人々の行動がここに描かれています。その日は、彼らにとっても心の重い金曜日でした。愛する主が十字架にかかって眠りにつかれたからです。主が亡くなられて迎えた日が、第七日安息日(今日の金曜日の日没)。これまでの神様を賛美して過ごした安息日に比べると、これほど暗く悲しい安息日はあったでしょうか。ところがこの安息日直後の週のはじめの日(日曜日)の朝に何が起きたか。人生の常識を覆す、驚くべき出来事が起きました。それは主の復活です。安息日は、深い意味において、人生をストップする日です。そして人生をストップした次の日に、新しい人生が始まります。それは復活の日です。安息日に主の十字架の恵みを体験した後、復活の恵みが用意されている日。安息日には、人生の重荷を神様におまかせしましょう。それらはそこで死ぬのです。死ぬので復活がある。死と復活のパックが、「安息の後に復活がある」…という恵み。この主の恵みに触れて第七日を過ごしたいと思います。ハッピ・サバス!

磯部豊喜

みことばの花 180720「信仰は前に進むこと」

みことばの花180720「信仰は前に進むこと」

「もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。」(ヘブル 11:15)

旧約聖書の創世記の中に後ろを振り返ったために、塩の柱になったロトの妻の話があります。身体は前に進んでいるのに、心は滅亡の町ソドムに残っていた女性の悲しい末路が描かれています。これとは正反対の進み方をした人がいます。それはアブラハムという人です。アブラハムは親族のいるカルデアのウル(現在のイラクにあった町)から神様の示されるまま、遠いカナン(主として現在のイスラエル)まで歩を進めました。以来、彼は一度もふるさとに戻っていません。慣れ親しんだ土地を離れるのは、勇気のいることです。しかし彼は、未知の地でしたが、神の示された土地を目指しました。これは彼の心の土地にも言えることです。信仰とは神様の愛と教えの道に従っていくことです。そして従ったら、後戻りはしない。そのような生き方によって、アブラハムは「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれるまでになったのは実に教訓的な気がします。「手をすき(鋤)にかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)ともあります。今日も主の導きがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180719「猛暑」

みことばの花180719「猛暑」

「第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。」(黙示録16:8)

「今年の夏は例年よりも暑いかもしれない」と私は予想していました。なぜかというと、今年の冬は、とても寒かったからです。「極寒の冬の後には、猛暑がやってくる」という過去の事例があります。先ほどラジオで「命に危険な暑さなので、気をつけましょう!」との言葉が聞かれました。昨日、岐阜では40℃を越えたといいます。この猛暑を思っていましたら上記の黙示録にある聖句が浮かびました。これは終末的な出来事の予告の一つです。「太陽は火で人々を焼くことを許された」とある。このような出来事をどのように解釈するのか。「人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった」と続きます(9節)。人は苦しくなると神様のせいにしたくなります。しかし災害をもたらす原因は、自然破壊を進める人間が作り出しているのかも知れません。苦しい時、いかに生きるかで人の立っている位置が分かるという。人生の猛暑の中にあっても主の恵みがあることを覚えて過ごしたいと思います。

磯部豊喜

 

みことばの花 180718「しない道」

みことばの花180718「しない道」

「それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。」(マタイ 26:53)

ある能力を持っている人が、それをしない場合には忍耐が必要です。たとえば、子供の成長のために、その子が出来るまで待つということは、簡単に出来る親にとって我慢が必要。ところで、ご生涯の中で30近い奇跡を行なわれたキリストには、人知を超えてお出来になることがたくさんありました。ところがキリストがご自分の行動を制限された一つが上記の中に見られます。次の御言葉が続きます。「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」(54節)。キリストはご自分の能力を現すことをあえて控え、天の父の御心を果たすことを選ばれました。それは一途に十字架の道に進むこと。そのために何もせず、沈黙の道を選ばれました。キリストは自分自身を救う力があったのですが、その道を選ばなかった。なぜでしょうか?罪人を救う唯一の道を開くためです。「する」も、「しない」も常に隣人の祝福のため。これが私の行動の動機となれば素晴らしいと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 180717「雲りの日に」

みことばの花180717「雲りの日に」

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」(出エジプト記 13:21)

「曇り」と聞くとどんな気持ちになるでしょうか。曇りという言葉は「心がどんより曇る」とか「顔が曇った」とか、あまり良い表現で使われません。ところで暑い毎日が続く中、今朝はとても涼しい風が吹いていました。あたりを見回すと、雲一面の空、いわゆる「曇り空」です。雲の下を通り抜ける涼しき風に吹かれて、「何と気持ちの良いことか」と感動しました。ところで雲の柱によって神様がイスラエルの人々を導いたという記録が聖書にあります。馬が走るエジプト軍が迫っている中、神は徒歩で女子供を含んで進むイスラエルの人々を昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを導き守られたという記録です。それにしても「西日本の豪雨被災地の酷暑の中にも雲を送ってください」と祈らずにいられない、そういう思いにさせられました。主の守りが、今日も特に被災地の方々やボランティアの方々の上にありますように。悲しみの中にある人々に、少しでも涼しき風が吹きますように…。

磯部豊喜

みことばの花 180716「恵みのわざ」

みことばの花180716「恵みのわざ」

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」(Ⅰコリント 1:28)

神様のしてくださることを「恵みのわざ」と言います。この世界で、人が何かの役割に推薦される場合、その人のもっている能力とか資質というのが問われます。しかし神様の世界ではこれとは異なっています。神は「この世の有力な者」よりも「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」とあります。実に挑戦的な言葉ですが、「あえて選ばれた」とあります。これは相応(ふさわ)しいから選ぶのでなく、むしろ「相応しい者にするために」選ぶ、ということなのでしょう。私も牧師をさせていただいていますが、牧師として相応しいので選ばれたと断言出来ません。むしろ牧師として相応しくなるため、育てていただくために「あえて選ばれた」のでしょう。とはいっても、いまだに牧師の肩書きをぶら下げた、ひよっ子に過ぎませんが、これまでこの働き続けることができているのは、まさに神の「恵みのわざ」だと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 180715 「推薦する、されること」

みことばの花180715「推薦する、されること」

「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。」(Ⅱコリント 3:1)

社会のグループ組織の中では、ご奉仕いただく方々にある役割を推薦することがあります。例えば教会の場合は、まったくのボランティアですので、推薦作業は骨が折れる場合があります。会社であれば辞令一つでどうにでもなるのでしょうが、教会では推薦した後に、本人に承諾を得ることが必要になるからです。ところで上記のみ言葉にあるように、自己を推薦する人がいます。ですが往々にして自己推薦者は、その役割に相応(ふさわ)しくない場合もみられます。これは私自身のことですが、ある役割を推薦された場合、推薦作業をしてくださった方々の労(ねぎら)う意味で、自分はそれに相応しくないと思いつつも特別な支障がない限り一度は引き受けることにしました。そして実際に引き受けた後に、ストレスが多い場合は次回は遠慮させていただくということにしました。ただ推薦される場合は、「ふつつかな者ですが、させてください…」という謙虚な心だけは失わないようにしたいのです。今日も主の恵みがありますように。

 

磯部豊喜

みことばの花 180714「心に適う者」

みことばの花180714「心に適う者」
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』」(マタイ 3:17【新共同訳】)
上記の御言葉(みことば)は、イエス・キリストがバプテスマのヨハネという人からヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けた時に、語られた天(神)からの御言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼ばれるのは素晴らしいことです。これはイエス様に向けて言われた言葉ですが、私どもも同様の言葉を天の父から聞くことが出来ます。それは素直に神様の示された道を信仰によって歩むことです。まことに単純なことですが、神様の言葉である聖書から生き方の道を示されたならば、「なぜ?」とか「どうして?」といわずに、「主よ、お言葉ならば」と言って従うことです。そのとき「わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきます。今日は聖なる第七日安息日(聖なる日)、天地万物の創造の記念日です。この日も信仰をもって清く守るとき、「わたしの心に適う者」という御声が聞こえてくることでしょう。ハッピーサバス!
磯部豊喜