みことばの花 180611「悲しみの人」

みことばの花180611「悲しみの人」

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(イザヤ 53:3)

今日も讃美歌を書かせていただきます。「①身に負いえぬ 悲しみは 深くうずめん ほかぞなき  はやくゆきて ほうむれよ 負いなやみし 汝(な)がおもに」、「②なさけふかき イエス君(きみ)は 汝がかなじみ 知りたもう はやくゆきて 告げまつれ こころのやみ とく晴れなん」、「③こころのやみ はれもせば なおなやめる 世のひとに はやくゆきて 知らせよや すくいぬしの みめぐみを」(旧讃美歌523番)。これは私の好きな讃美歌の一つで、かつてよく口ずさんでいました。私たちの悲しみは、どこにもって行けば良いのでしょう。悲しみを持っていく場を、持っている人は幸いです。それは「悲しみの人」(イエス・キリスト)です。誰よりも人の悲しみを知っているお方は、私どもの悲しみを理解してくださいます。悲しみに包まれるとき、このお方のもとへ告げ知らせましょう!私の悲しみは必ず癒されます。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180610「低くされること」

みことばの花180610「低くされること」

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ 23:12)

讃美歌に「①主よわれをば とらえたまえ さらばわが霊(たま)は 解き放たれん わがやいばを くだきたまえ さらばわが仇(あだ)に 打ち勝つをえん」、「②わがこころは さだかならず 吹く風のごとく たえずかわる 主よみ手もて ひかせたまえ さらば直き道 ふみ行くをえん」、「③わが力は よわく乏し 暗きにさまよい 道に悩む あまつ風を おくりたまえ さらば愛の火は 内にぞ燃えん」、「④わがすべては 主のものなり 主はわがよろこび また幸なり 主よ聖霊(みたま)を 満たしたまえ さらば永遠(とこしえ)の 安きを受けん」(旧讃美歌333番、希望の讃美歌383番)。①~④のどの歌詞も心にズシンときます。人生はガラスのような海をスーと流れるように進めばどんなに良いかと思いますが、嵐があります。特に激しい嵐は心の中に襲う嵐。この嵐の意味を考えてみました。上記の聖句にあるように真に高くされるために「低くされる」嵐があるのでは…。であれば嵐も大きな役割を持っていることになります。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180609「平和のきずな」

みことばの花180609「平和のきずな」

「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」(エペソ 4:3)

絆(きずな)というのは素敵な言葉です。国語辞典には「断とうにも断ち切れない人の結びつき」とあります。一度、結ばれた絆は出来る限り断ち切らないようにしたいものです。夫婦の絆、親子の絆、友と友の絆…いちど築かれたものは本来とても尊いものです。浅い絆になるのか深い絆になるのかは、当人の心がけ次第でしょう。聖書には、「絆」に加えて「平和の」が加えられています。「平和の絆」を築くことができたら素晴らしいです。そのためのキーワードは、続く言葉に見られます。「聖霊による一致を守る」…換言(かんげん=他の言葉に言いかえると)すれば、「神様を生活の中心にお迎えして、心を一つにされるように努力し、互いに仲良く暮らす」となるでしょうか。神様とまず一つになること、そして人と人の間が一つになることは切り離して考えられないことだと思います。今日は第七日安息日、神様と一つになれるチャンスの日です。キリストの愛に触れて、「平和なきずな」作りの一週間生活のスタートを切りたいと思います。ハッピ、サバス!

磯部豊喜

みことばの花 180608「謙遜を求めよ!」

みことばの花180608「謙遜を求めよ!」

「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。」(ゼパニヤ書 2:3)

「柔和と謙遜」は私の好きな言葉…と言うより、私の目標です。それは自分は柔和でもないし、謙遜でもないからです。時々胸の中でメラメラ~と何かが熱くなります、また心の隅で「○○さんよりは、ましだ」という思いをもたげる自分がいます。しかしみ言葉は、「へりくだり」「謙遜を求めよ」という。昨日の朝のこと、雨に濡れた紫陽花(あじさい)を見ました。その時、天の光が私の心に射しました。そうだ!三つの俳句が浮かびました。①重くなり 雨に咲く あじさいか(※雨のために重くなり 姿勢は低くなっても美しく咲いている あじさいに感動)。②あじさいよ 雨に濡れて オジギソウ(※雨に濡れて 頭を下げるアジサイの姿に オジギソウを思い出した)。③雨にぬれ おじぎを見せる あじさいよ(※雨は聖霊<神の霊>、この聖霊の雨に打たれ謙遜にされ、道行く者に頭をたれる、あのアジサイのごとくになりたいものだ)。どれがいいか…。読者の皆様にアンケートを取りたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180607「悲しみ」

みことばの花180607「悲しみ」

「あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。」(Ⅱコリント 2:7)

こんな詩をの中から見ました。【「わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるのです」でんでんむしはある日「たいへんな こと」に気づく。このままではもう生きていけないと友だちに告げると、誰もが「あなたばかりじゃ ありません」と言う。みなそれぞれ悲しみを抱えるからこそ、いたわりあうこともできる。でんでんむしは「わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」と心に決めた。童話「でんでんむしの かなしみ」から。(=2018.6.6朝日新聞1面)】「悲しみ」…は私たち人間に無縁であれば良いのですが、そうではありません。「悲しみ」のない世界があればどんなに良いことかと思います。それゆえに人の「悲しみ」を逆なでしてしまうことだけは控(ひか)えたい。上記の聖句の「ますます深い悲しみに沈むかも知れない」は心に刺さります。天来の光を受けて少し一歩進んで、どんな人に対しても「優しい人」になりたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180606「元のところに」

みことばの花180606「元のところに」

「群れが皆そこに集まると、人々は井戸の口から石をころがして羊に水を飲ませ、その石をまた井戸の口の元のところに返しておくのである。」(創世記 29:3)

「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦(はっけ)」という言葉がありますが、「元のところ」…という聖句があるかないか試しに調べてみました。するとありました。上句のみ言葉がそうです。井戸の口から石を転がし、用が済むと、また「元のところ」にこの石を返すという。私たちの人と人のかかわりにおいて、ある場合、一度壊れることがあります。しかしそれが修復されればいいな~と思うときがあります。人と人のぶつかり合い、一度壊れたものが元の鞘に収まる場合、その絆はより強くなるともいわれます。「雨降って、地固まる」という言葉もそうでしょうか。天の神様から離れた人も、その距離が縮まっていって最後は「元のところ」へ戻ると良い。信仰者というのは「元のところ」に戻った人の姿です。人は神様によって命が与えられ生かされていますから…神様の元へ戻るのは当然のこと。果たして私は「元のところに」戻っているのか…と自分の心に問いたいのです。天の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180605「多くを愛する者の側」

みことばの花180605「多くを愛する者の側」

「そこでイエスは彼にむかって言われた、『シモン、あなたに言うことがある』。彼は『先生、おっしゃってください』と言った。」(ルカ 7:40)

昨日の続き。シモンという人は、かつてキリストに罪の病として恐れられた重い病気をいやしてもらった経験を持っていました。そこに罪の女と知られる女性がやってきてキリストに香油を注ぎ、涙をもってその足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐっていました。この罪の女として知られる女性も、キリストによって罪を許された人でした。しかしシモンは、自分の身に起きたことを忘れ「罪の女だ」と言って上から目線で思ってしまった。キリストはこれをすぐに見抜き、シモンに「あなたに言うことがある」と言い、あるたとえ話を話しました。ある金貸しに500万円程度の借金をもっている人と50万円程度の借金を持っている人があって、二人とも返すことが出来ないので、金貸しは二人とも許したという話。このふたりのうちで、どちらが彼を多くを多く愛するだろうかという質問をキリストは投げかけます。シモンは「多くを許したもののほうです」と答えます。多くを許されたと感じる心は、深い感謝の行動を生む。多く愛する者の側になれたら素晴らしいと思います。今日も主の愛を心に感じて出発しましょう。

磯部豊喜

みことばの花 180604「許すことの難しさ」

みことばの花180604「許すことの難しさ」

「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」(ルカ 7:39)

「わかっちゃいるけど…出来ない」ということの一つは「許す」ことではないか…と思います。人の罪を許すこと。特に被害者が自分の場合に、加害者を許すことはとても困難です。アメフトの日本大学選手の悪質タックルを受けて、被害者となった関西学院大学の学生の言葉は、とても素敵な言葉でした。学生は「彼(加害者)がアメフトをやる資格など自分にはないというのではなく、再び、決められたルールのもとで対戦したい」という真実を込めて許しの宣言をしました。彼の父親も「彼(加害者)は、すでに社会的な制裁を受けているから、その罪を出来る限り軽減させたい。そのためならば何でもする」と言っておられました。これも罪を許していなければ言えない言葉です。相手が罪を認めて謝罪の意を表明するとき、それが真実ならば許すという心はキリストの心そのものです。上記の聖句は、罪の病と言われた重い病気をキリストにいやして頂いたにもかかわらず、他人の罪を心の中でとがめてしまった人の言葉です。この後に、キリストが語られた御言葉は注目に値します。明日紹介しましょう。

磯部豊喜